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実在した武将・忍者

Real-life military commander/ninja

五州太守にして “肥前の熊”りゅうぞうじ たかのぶ龍造寺 隆信

活躍した時期 : 戦国時代 生没 : 1529 ~ 1584五州太守、 また肥前の熊とも異名される。 7 歳で出家して僧侶となり、父や親類の多くが謀殺された事件を経て 18 歳で還俗を命じられ、のちに龍造寺宗家の家督を継ぐ。 学才があり、 腕力に優れた若者であったという。
戦国乱世の中、 生きるか死ぬかの苦難が続くが、 近隣のライバルを次々と攻め降す。その内に、 肥前守護職の大友宗麟が数万の大軍で龍造寺征伐に到来、遂に滅亡の危機を迎えたが、 「今山の戦い」 の劇的勝利によって、大友軍と和睦し武名を挙げる。
その後、 龍造寺隆信は戦い続け、 肥前一国 (佐賀県 ・ 長崎県) を支配下におさめ、 要所の普請工事や巧みな養子縁組政策によって統治基盤を確立する。
大友氏の衰退と同時に一気に筑後 ・ 肥後 ・ 筑前へ兵を進め、 九州屈指の
勢力を持つ 「戦国大名」 へと成り上がる。
天正 12 (1584) 年、 島原半島で敵に包囲された味方を救うため、大軍を率いて出陣したが 「沖田畷の戦い」 で不慮の討死を遂げた。
彼は俗に冷酷非道 ・ 暴虐と言われるが、 味方は手厚く待遇し、 敵や裏切った者には容赦なく苛烈な処罰を加える信賞必罰の大将であった。
彼の構築した体制が、 佐賀藩の基礎となった。

白石の須古高城領主りゅうぞうじ のぶかね龍造寺信周

活躍した時期 : 戦国時代 生没 : 1532 ~ 1608安房守、 のちに (隆信の没後) 周光 (かねみつ) とも名乗る。 バランス感覚やコミュニケーション力に優れた人物。
隆信が長信を最も信頼したのは父も母も同じ兄弟だった事が要因の一つだが、信周もまた異母弟として龍造寺一門衆、 重臣となり、 兄の側で政治 ・ 軍事を支えた。
有名な合戦である丹坂峠の戦いや、 今山の戦い、 須古城攻めからその後の肥前統一戦、他国への遠征など、龍造寺隆信の信頼する主力として転戦、 活躍した。
隆信が他国に勢力を拡大させる過程では、 信周は筑前から豊前方面への遠征軍の大将として活躍したという。
豊臣秀吉の九州平定後、 天正 18 年 (1590) 秀吉の知行地配分によって正式に、須古城と須古・白石地域が龍造寺信周の領地となる。以後、 信周は須古・白石地域の領主として、 本格的な内政を開始し、広大な湿地帯へ排水工事を行い、 耕作地を広げて住民の収穫を増やしたり、 文武を奨励したり、荒廃した寺社仏閣を再興させるなど、地域に非常に貢献した。
その善政や人徳のため、信周は死後、杵島神社の祭神として祀られることになり、かれの戒名の一部をとって 「宗桂さん」 (そうけいさん) と呼ばれ、地元の神様として現代まで長く親しまれている。

水ヶ江龍造寺の当主りゅうぞうじ ながのぶ龍造寺長信

活躍した時期 : 戦国時代 生没 : 1538 ~ 1613
多久梶峰 (かじみね) 城主。 佐賀県多久市の地域を治めた、 戦国時代の多久地域の殿様。 息子の龍造寺家久が、 改姓して多久氏となり、多久氏が江戸時代を通じて多久地方を統治した。
長信本人は、 多久姓は名乗って居ない。 生涯 「龍造寺長信」 (大和守)。長の字は大内義長から貰った。
家臣思いで、 情け深く、 温和な人物であったとされる。史料上、 家臣団に慕われていた様子がある。龍造寺隆信がもっとも信頼する家臣であり弟。 兄と連絡を交わした書状が沢山残っている。母慶誾尼の手紙に 「長信は親孝行者だ」 と記されている。兄が龍造寺本家を相続したので、 長信は分家の水ヶ江龍造寺家を相続した。
鍋島直茂と生まれた年が同じ。 同い年。
(鍋島直茂は隆信の義理の弟、 長信にとっても義理の兄弟)

龍造寺家 語り部やすひめ安姫

活躍した時期 : 1546 ~ 1624
安子姫。 お安。 秀の前、 のちに妙安尼。 龍造寺隆信の先代当主・龍造寺胤栄(たねみつ)と妻・宗誾との間の娘。天文17年(1548)に胤栄が急逝した為、龍造寺隆信が宗誾を妻として本家を相続する事となった。 この時、隆信に引き取られ、義理の娘として養育される。 戦国の世のならいで、 政略結婚のため嫁ぎ先を転々とさせられる。 最初は小田鎮光に嫁いだが、鎮光は敵である大友氏へ寝返った罪があった。
そのため隆信は、 佐賀に滞在していた安姫に 「鎮光へ、 罪を許すので佐賀に詫びに来るように手紙を出してほしい」 と命じ、安姫がそのようにした所、 実は隆信の策略で、詫びにきた鎮光は斬られてしまった。 策略と知らずに手紙を書いた安姫は深く悲しみ、自害しようとしたが、女中に押えられ思いとどまったという。
その後、 龍造寺氏が勢力拡大する中で、唐津方面に勢力を誇る松浦党の波多三河守親(ちかし)に嫁がされる。 鎮には妻がいたが、 政略結婚のため隆信が鎮に離縁を迫り、 安姫を強引に輿入れさせたのであった。
安姫は美人として知られており、後年、豊臣秀吉が名護屋城に滞在した時に見惚れたと伝わる。 のち、 夫の波多親が秀吉の命で領地を没収され遠国に流された時、佐賀に戻り出家、妙安尼と称して静かな余生を過ごした。 いくつもの悲劇を乗り越えた女性。

異風の九郎くろう九郎

活躍した時期 : 戦国時代九郎左衛門 (くろうざえもん)。 実は豊前の名門武士の子供だが謎の多い人物で、 山伏の修行を積み、筑後から佐賀を流浪していた所、 若い頃の龍造寺隆信と出会い、 偶然、足軽に取り立てられる。
知恵が回りフットワークも軽く、隆信のお気に入りとなり、隆信の警護役、 また諜報役や伝令として活躍。 その多彩な才能から、人々に 「異風者 (いひゅうもん)」 と称された。

*創作の人物。 モチーフは田原九郎左衛門尚明という人物。

肥前の巴ひこじゅ彦寿

活躍した時期 : 戦国時代普段は隆信に仕える侍女だが、 密かに新陰タイ捨流を会得した腕利きの剣士。 隆信の陰となって、 身のまわりのお世話や警護を務める。遠慮なく意見を言う気の強さも、隆信のお気に入り。
馬術も得意で、 ピンチの時に刀や槍を振るって隆信を助ける姿は、木曽義仲に仕えた女武者・巴御前さながらの姿であると賞された。普段は教養深く、 おだやかな女性である。
一、“おもてなし”の頂点をめざす。
佐賀三忍衆

細作たばるやすうえもんよししげ田原安右衛門良重

活躍した時期 : 江戸時代 生没 : 1641 ~ 1711佐賀藩支藩 ・ 蓮池藩の侍。 鉄砲足軽組頭や忍者を務め、最終的には嬉野塩田役所の長官という高い地位に昇りつめた。
『蓮池日史略』 第一巻に以下の記載がある。

「寛文 7 年 (1667) 島原藩主・高力(こうりき)氏が改易されるかもしれない事になり、島原が騒擾(そうじょう)した。鍋島直澄(なおずみ)公は、田原安右衛門を細作として島原に遣(や)り、 その動静を探らせた。」

細作 (さいさく)=忍者として活動した

山伏べんけいむそう弁慶夢想

でんりんぼうらいけい(伝林坊頼慶)

活躍した時期 : 江戸時代嬉野市に滞在し、 タイ捨流剣術を指導。 先行研究上、 山伏かつ剣術家の 「彦山八天狗 弁慶夢想」 と伝林坊頼經 (肥後相良藩所属) は同一人物とされている。
元禄 2 年 (1689 年) 3 月付、 「タイ捨流忍之内極意秘密之巻』に以下の内容の記載があり、 忍術をマスターしていた事が分かる。

<タイ捨流忍之内極意秘密之巻>
「犬隠れの術」・「柴隠れの術」・「木の葉隠れの術」
「タイ捨の一流、 佛の勧業 (かんぎょう)と共に修行すべし、忍法修行も同じ秘事を守り日夜の修行也」

聞合方こがげんだゆう古賀源太夫

活躍した時期 : 江戸時代幕末期蓮池藩の下級武士。 異国船渡来の事情を探る任務であった。また 「御作事 (さくじ) 方」 「御火術方」 等の役職も務めており、手先が器用で火薬の知識もあったと思われる。
「請 (うけ) 役所日記」 などに、 内密の御用や聞合方御用 (諜報)のため複数回、 長崎へ派遣された事が記されている。
1回目は嘉永6年(1853年)7月、ロシアのプチャーチン艦隊が長崎港に入った時。
2回目は安政元年(1854年)7月、イギリス艦隊のジェームス ・ スターリングの来航をきっかけとして、 安政2年(1855年)7月、オランダ艦隊のライケンが長崎に入った時期。
国籍不明の異国船が頻繁に長崎沖に姿を見せるようになり、佐賀鍋島藩において長崎警備の任務が緊迫した状況となっていた。

五州太守にして “肥前の熊”古賀源太夫(こがげんだゆう)

活躍した時期 : 江戸時代

龍造寺 隆信

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制作陣

龍造寺隆信・佐賀三忍衆監修

龍造寺隆信・佐賀三忍衆監修

佐賀戦国研究会 代表 深川 直也

1979年生まれ。佐賀西高校卒、関西大学文学部国語国文学科卒。佐賀市在住。
NPO法人 九州忍者保存協会顧問。
近年は佐賀県内の忍者調査で成果があり、佐賀の忍者研究者として全国のメディアで
報道された。
龍造寺隆信の甲冑や衣装、武器の監修

龍造寺隆信の甲冑や衣装、武器の監修

佐賀戦国研究会顧問 中西 豪

九州大学文学部史学科朝鮮史専攻。研究テーマは近世朝鮮軍事外交史、特に壬辰戦争。
現在は歴史研究家・ライターを名乗る。研究分野は東アジア前近代軍事史、
その成果で東漢光武帝の中興から朝鮮戦争、筑紫君磐井の乱から戊辰・西南戦争まで
手広くムック・シリーズ『歴史群像』や雑誌『歴史群像』を中心に多数の記事を執筆。
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